軍師
竹中半兵衛・黒田官兵衛
竹中半兵衛
竹中半兵衛 (岐阜県不破郡垂井町 記念館資料 )
竹中半兵衛は、戦国時代を代表する軍師として知られ信長の家臣である秀吉の参謀として
黒田官兵衛と共に「秀吉の二兵衛」と称されて活躍しました。
竹中家陣屋跡 竹中半兵衛
半兵衛の墓のがある禅幢寺 半兵衛の墓
年 表
年 号 西暦 事 項
天文13年 1544 美濃斎藤家の家臣で美濃国大野郡大御堂領主 竹中重元の子として生まれる
永禄 元年 1558 不破郡岩手城を攻め岩手一帯を領有する (垂井町岩手)
永禄 5年 1562 父 重元の死去により家督を相続
永禄 7年 1564 主君、斎藤龍興から稲葉城を奪取
永禄10年 1567 織田信長の侵攻により主家斎藤家滅亡
信長の命により羽柴秀吉に「三顧の礼」をもって家臣として迎えられる
天正 7年 1579 秀吉の三木城 別所長治攻めに与力として出陣 陣中に於いて病に倒れ京都で静養
病をおして帰陣 陣中にて没 享年36歳
黒田官兵衛
黒田官兵衛
五明稲荷神社(垂井町 岩手)
黒田官兵衛が織田信長を裏切った荒木村重に付いたと判断した信長は官兵衛の
息子、松寿丸(のちの長政)を殺すよう命じた際、岩手城主の竹中半兵衛が松寿丸
をかくまった場所で、銀杏は松寿丸が植えたと言われているそうです。
年 表
年 号 西暦 事 項
天文15年 1546 播磨の国 姫路城代・小寺職隆の長男として誕生
永禄 5年 1562 元服し通称を官兵衛と改め初陣
永禄10年 1567 家督を継いで姫路城主になる 光と結婚
天正 3年 1575 主君 小寺政職を説得、織田信長へ従属させる 信長を訪ね岐阜城へ
羽柴秀吉と出会う
天正 5年 1577 中国攻めの秀吉に姫路城を提供、秀吉に従い福原城、上月城を攻略
天正 6年 1578 信長に反旗を翻した武将・荒木村重の説得に有岡城に赴き幽閉される
主君・小寺政職が毛利氏に寝返る
天正 7年 1579 有岡城が落城 救出される
天正 8年 1580 秀吉から播磨1万石を与えられる
天正10年 1582 毛利方の備中高松城の水攻めを進言
信長の本能寺の変を知ると秀吉を支え毛利氏と停戦「中国大返し」を実行
10日後に明智光秀を山崎にて破る
天正13年 1585 キリスト教の洗礼を受ける
天正15年 1587 九州攻めの功により豊仲中津の領主になる
天正17年 1589 家督を長男・長政(幼名・松寿丸)に譲る
天正18年 1590 秀吉の小田原攻めに従軍 北条氏を説得、無血開城をさせる
文禄 元年 1592 朝鮮に出陣
慶長 5年 1600 関ヶ原の戦いで長政は東軍で大活躍、官兵衛も九州で大勝利
長政に筑前52万石が与えられる
慶長 9年 1604 伏見の藩邸で永眠、享年59歳 京都の龍光院に埋葬